Masuk金曜日の朝、達哉を送り出してからすぐ、沙耶はパソコンを開いた。
コンセプト案。来週中という締め切りまで、まだ余裕はある。でも、頭の中にあるものを早く形にしたかった。昨日の打ち合わせで神崎から聞いた言葉が、まだ鮮明なうちに。 ターゲットは三十代の働く女性。キャリア支援のサービス。堅すぎず、でも軽くもない。 沙耶はまず、言葉を書き出すことから始めた。デザインより先に、言葉。これは沙耶がずっとやってきたやり方だった。依頼主が伝えたいことを言語化してから、視覚に落とし込む。遠回りに見えて、これが一番ブレない。 三十代の働く女性。 沙耶は手を止めた。 それは──自分のことでもある。 二十八歳だから厳密には違うけれど、あと二年もすれば三十代だ。フリーランスとして働いて、家庭を持って、でも何かがずっとうまくいかない気がしている女性。そういう人たちに届くものを作りたい、と神崎は言っていた。 届くもの。 沙耶は再びキーボードに向かった。言葉が、少しずつ出てきた。 午前中いっぱい、沙耶は画面と向き合った。 コンセプトのキーワードを並べて、整理して、また並べ直す。色のトーンを考える。フォントのイメージを探す。参考になりそうな事例を集めて、でも似すぎないように距離を取る。 気づいたら、昼を過ぎていた。 お腹が空いていることにも気づいていなかった。コーヒーも、朝に入れたまま飲み忘れていた。冷めきったカップを持ち上げて、一口飲んで、沙耶は小さく笑った。 こんなに夢中になったのは、久しぶりだ。 夢中、という言葉が自分の中から出てきたことに、少し驚いた。最近の沙耶の時間は、夢中とは遠いところにあった。達哉の食事の好み、機嫌の波、義実家への対応、毎日の家事の段取り。全部、誰かのための時間だった。自分が何かに没頭するという感覚を、いつの間にか忘れていた。 冷蔵庫から適当なものを出して、簡単な昼食を済ませる。それからまたパソコンの前に戻った。 午後も、時間が溶けるように過ぎていった。 夕方五時。 達哉が帰ってくる一時間前に、沙耶はパソコンを閉じた。 コンセプト案の骨格は、ほぼできていた。完成ではないけれど、方向性は見えている。来週の前半には神崎に送れる。我ながら、悪くない仕上がりだと思った。 夕飯の準備を始めながら、沙耶の頭はまだ仕事のことを考えていた。あのキーワードの並びは正しいか。色のトーンはもう少し落ち着かせた方がいいか。フォントの選択肢をもう一度見直したい。 玉ねぎを切りながら、配色のことを考えていた。 鶏肉を焼きながら、キャッチコピーの候補を頭の中で転がしていた。 こういうの、好きだったんだ。 包丁を持つ手が、ふと止まった。 仕事が好きだということを、最近あまり思わないようにしていた気がする。好きだと思うと、達哉の「続かないでしょ」という言葉が必ずついてくるから。好きという感情に、あの言葉がセットになっていた。 でも今日一日、達哉の声は聞こえなかった。 夢中になっている間、あの声は来なかった。 六時過ぎ、達哉が帰ってきた。 「おかえり」 「ん」 靴を脱いで、ネクタイを緩めながら、達哉はリビングへ向かった。ソファに座って、スマートフォンを開く。いつも通りの帰宅だった。 「今日、何してた」 テレビをつけながら、達哉が言った。こちらを見ていない。 「仕事」 「どうせ大した仕事じゃないんでしょ」 沙耶はキッチンから返事をしなかった。 以前なら、ここで何か言っていた。「そんなことないよ」とか「ちゃんとした依頼なんだけど」とか。達哉の言葉を否定するのではなく、ただ、完全に肯定されるのが嫌で、少しだけ抵抗していた。でもそのたびに達哉は「じゃあ具体的にどんな仕事なの」と聞いてきて、話すと必ず「それって誰でもできるやつじゃないの」という方向に着地した。 だから今日は、何も言わなかった。 返事をしないことで、会話が終わった。達哉もそれ以上は聞いてこなかった。 これでいい。 沙耶は味噌汁をよそいながら、そう思った。 全部話す必要はない。守りたいものは、守っていい。 夕食中、達哉が言った。 「来週の日曜、親父たちのとこ行くから」 「……急だね」 「急じゃない。前から言ってた」 言っていない、と沙耶は思った。でも言わなかった。この手の話で「聞いていない」と言うと、必ず「お前が聞いてなかっただけ」という返しが来る。そしてそれがどこまでも続く。消耗するだけだ、ということを沙耶は学習していた。 「わかった。何時に出る?」 「十時。昼飯、向こうで食べるから」 「お義母さんに何か持っていく?」 「いらない」 それで会話は終わった。 沙耶は箸を動かしながら、来週の日曜のことを頭の隅に入れた。義実家。常夫さんと景子さん。あの家の空気。行くたびに、帰りの電車の中で少しだけ、自分が小さくなった気がする。 来週か。 でも今週の沙耶には、来週より先に、やることがある。 コンセプト案の仕上げ。神崎への送付。それだけを考えよう。 箸を置いて、沙耶は立ち上がった。 「ごちそうさま」と達哉が言った。 「はい」と沙耶は答えた。 皿を重ねながら、今日一日、画面に向かっていたときの感覚を、もう一度思い出した。時間が溶けていく感覚。言葉が形になっていく感覚。誰かのためではなく、自分の判断で手を動かしている感覚。 夢中になれるものが、ある。 それだけで、今夜は眠れる気がした。 夜、達哉が寝室に入ってから、沙耶はもう一度だけパソコンを開いた。 コンセプト案のファイル。今日作ったキーワードの並びを、もう一度眺めた。 悪くない。 むしろ──いいと思う。 自分の仕事を「いい」と思えることが、こんなに久しぶりだとは思わなかった。達哉の言葉がいつの間にか自分の中に入り込んで、自己評価の基準になっていた。「どうせ大した仕事じゃない」──その声が、沙耶自身の声になっていた。 でも今夜だけは、その声より先に、別の声が聞こえた。 これは、いい仕事だ。 沙耶はファイルを保存して、パソコンを閉じた。 部屋の電気を消して、ベッドに入る。 天井を見上げながら、沙耶は思った。 来週、神崎に送る。ちゃんと送る。 目を閉じると、今日一日の時間が、ゆっくりと沈んでいった。悪くない一日だった。久しぶりに、そう思える夜だった。木曜日の午後三時。KAN DESIGN LABのオフィスに、林が少し早く来ていた。テーブルの上に、A4の紙が三枚。コピー案を、印刷してきていた。井上と田中が来て、最後に神崎が奥のデスクから立ち上がり、テーブルに加わった。「じゃあ、始めよう」四人と沙耶が、揃った。林がA4を一枚ずつ配った。案①「もう、誰かのためだけに生きない。」案②「あなたの人生は、あなたが取り戻す。」案③「ずっと待っていた、自分自身の声を。」沙耶は三枚を、順番に読んだ。言葉は、強かった。まっすぐだった。怒りが、きれいに研がれていた。これは、二年前の私だ。思った。打ち消さなかった。神崎が三枚を読み終えて、一度置いた。何も言わなかった。その沈黙が、否定ではないと、沙耶にはわかった。考えている沈黙だった。「一個、聞いていい」沙耶は林に言った。「はい」と林が言った。「これを読む人は、今、どこにいると思う?」林が少し考えた。
二月の第三週、火曜日。 神崎のオフィスに向かいながら、今日は少し違う感覚があった。 いつもは、打ち合わせの内容を頭の中で確認しながら階段を上がる。今日は、確認よりも先に、聞きたいことがあった。 聞きたいこと。 自分から、聞く。 そのことが、少し緊張を作っていた。 ドアを開けると、神崎一人だった。 今日は二人だけの打ち合わせだった。ビジュアルの最終確認と、三月のクライアント向け提示の準備。 「おはようございます」 「おはようございます。コーヒー、淹れますね」 「ありがとうございます」 神崎がコーヒーを用意する間、沙耶はテーブルに資料を並べた。 今日持ってきたのは、ビジュアルと言葉の整合チェックシートと、提示用の構成案だった。 コーヒーが二つ、テーブルに置かれた。 打ち合わせが始まった。 ビジュアルの確認は、三十分ほどで終わった。井上の第二稿は、方向として固まっていた。細部の調整は来週でいい、という結論になった。 提示の構成も、大きな変更はなかった。沙耶が作ってきた構成を、神崎が二箇所だけ手を入れた。どちらも、沙耶が迷っていた箇所だった。 「ここ、迷っていました」と沙耶は言った。
二月の第二週、木曜日の夜だった。 夕飯を終えて、仕事部屋で作業をしていた。林が書き直してきたコピー案への返信をまとめていた。林は速かった。フィードバックを受けてから三日で、新しい案を五つ出してきた。五つのうち二つが、方向として正しかった。残りの三つも、間違いではなかった。ただ、まだ少し、外側にいた。 どう伝えるか、言葉を選んでいた。 そのとき、スマートフォンが鳴った。 母、美和からだった。 「もしもし」 「沙耶、今大丈夫?」 「うん、大丈夫」 「仕事中じゃない?」 「してたけど、いい」 電話口の向こうで、美和が少し息をついた。 「何となく、かけたくなって」 「何となく」 「そう。何となく。用がなくてもかけていいって言ったの、沙耶じゃない」 沙耶は少し笑った。「そうだったね」 「声、変わったね」 「変わった?」 「笑い方が、少し軽くなった。前は、笑う前に一回確認する感じがあったから」 沙耶は少しの間、何も言わなかった。 笑う前に一回確認する。 自分では気づいていなかった。でも、言われてみると、そうだった気がした。達哉が近くにいるとき、笑ってい
木曜日の朝、神崎のオフィスに向かった。階段を上がりながら、今日の議題を頭の中で確認した。ビジュアルの進捗確認、次フェーズのスケジュール、林が初めてコピー案を出すと聞いていた。最後の一点が、少し気になっていた。気になる、というのは、悪い意味ではなかった。林がどんな言葉を持ってくるか、純粋に知りたかった。ドアを開けると、三人すでにいた。神崎がホワイトボードの前に立っていた。田中はコーヒーを飲みながらノートを開いていた。林はテーブルの端に座って、手元の紙を見ていた。紙を持つ手が、少し固かった。「おはようございます」三人が顔を上げた。林が沙耶を見て、少し表情が動いた。緊張が、隠しきれていなかった。「おはようございます」と沙耶は林に向かって言った。いつもより少し、柔らかい声で。林が小さく頷いた。神崎が口を開いた。「今日の確認事項は三つです。ビジュアルの進捗、スケジュールの調整、それから林さんのコピー案。順番に行きます」ビジュアルの進捗は、沙耶と井上のやり取りを田中が整理して報告した。「重力が出た、という岸谷さんの評価で、方向性が固まりました。来週、井上が第二稿を上げます」「スケジュールは?」と神崎が聞いた。「三月頭のクライアント確認に間に合います」「わかりました。では林さん」林が顔を上げた。手元の紙を、テーブルの上に置いた。「
二月に入った。 ビジュアルの作業は、週に一度のペースで進んでいた。井上が作ったものを沙耶が確認し、言葉で返す。返ってきたものを井上がまた形にする。その往復が、少しずつ積み重なっていった。 今週は、オフィスに行かずにメールとチャットでやり取りする日が続いた。 水曜の夜、井上からデータが届いた。 開いた。 先週より、重力が増していた。円の線が少し太くなっていた。余白の使い方が変わっていた。浮いていない。地面がある。 沙耶はしばらく、画面を見ていた。 届いた。 言葉がビジュアルになって、戻ってきた。 返信を書いた。 「重力、出ました。円の線の太さの変化が、特に効いていると思います。この方向で進めてください」 送信した。 すぐに既読がついた。井上からの返信は短かった。 「よかった。岸谷さんの言葉があったから、たどり着けました」 沙耶はその一文を、三回読んだ。 仕事部屋のドアを開けて、リビングに水を飲みに行った。 達哉はソファにいた。スマートフォンを見ていた。 沙耶が冷蔵庫を開けると、達哉が言った。 「また仕事?」 「うん。データの確認をしてた」
神崎のオフィスに向かったのは、一月の最終週、水曜日だった。 今日は初めて、チーム全員が集まる日だった。第19話で一度顔を合わせていた田中と林のことは、覚えていた。田中は三十代のマーケティング担当で、林は二十代のコピーライター志望のアシスタントだった。もう一人、デザイナーの名前は、事前にメールで知っていた。井上颯太、二十六歳。神崎のチームに入って二年目だと聞いていた。 階段を上がって、『KAN DESIGN LAB』のプレートの前に立った。 ノックすると、神崎が開けた。 「おはようございます」 「おはようございます。今日もよろしくお願いします」 奥に三人いた。田中がこちらを見て軽く頷いた。林は立ち上がりかけて、少し迷ってから立ち上がった。井上は細身で、髪が少し長い。ノートパソコンの前に座っていたが、沙耶が入ってくると立ち上がった。 「井上です。初めまして」 「岸谷です。よろしくお願いします」 田中が言った。「田中です。以前一度ご挨拶しましたね」 「はい。お世話になっています」 林が小さく頭を下げた。「林です。よろしくお願いします」 声が少し緊張していた。沙耶も、少し緊張していた。 テーブルに五人で向かった。 神崎が口を開いた。 「今日から、コンセプトをビジュアルに落とし込む作業に入ります。井上がビジュアルを作り、岸谷さんが言葉との整合を確認する。 田中はマーケティング視点からチェ