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第5話  夢中

last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-29 19:00:48

金曜日の朝、達哉を送り出してからすぐ、沙耶はパソコンを開いた。

コンセプト案。来週中という締め切りまで、まだ余裕はある。でも、頭の中にあるものを早く形にしたかった。昨日の打ち合わせで神崎から聞いた言葉が、まだ鮮明なうちに。

ターゲットは三十代の働く女性。キャリア支援のサービス。堅すぎず、でも軽くもない。

沙耶はまず、言葉を書き出すことから始めた。デザインより先に、言葉。これは沙耶がずっとやってきたやり方だった。依頼主が伝えたいことを言語化してから、視覚に落とし込む。遠回りに見えて、これが一番ブレない。

三十代の働く女性。

沙耶は手を止めた。

それは──自分のことでもある。

二十八歳だから厳密には違うけれど、あと二年もすれば三十代だ。フリーランスとして働いて、家庭を持って、でも何かがずっとうまくいかない気がしている女性。そういう人たちに届くものを作りたい、と神崎は言っていた。

届くもの。

沙耶は再びキーボードに向かった。言葉が、少しずつ出てきた。

午前中いっぱい、沙耶は画面と向き合った。

コンセプトのキーワードを並べて、整理して、また並べ直す。色のトーンを考える。フォントのイメージを探す。参考になりそうな事例を集めて、でも似すぎないように距離を取る。

気づいたら、昼を過ぎていた。

お腹が空いていることにも気づいていなかった。コーヒーも、朝に入れたまま飲み忘れていた。冷めきったカップを持ち上げて、一口飲んで、沙耶は小さく笑った。

こんなに夢中になったのは、久しぶりだ。

夢中、という言葉が自分の中から出てきたことに、少し驚いた。最近の沙耶の時間は、夢中とは遠いところにあった。達哉の食事の好み、機嫌の波、義実家への対応、毎日の家事の段取り。全部、誰かのための時間だった。自分が何かに没頭するという感覚を、いつの間にか忘れていた。

冷蔵庫から適当なものを出して、簡単な昼食を済ませる。それからまたパソコンの前に戻った。

午後も、時間が溶けるように過ぎていった。

夕方五時。

達哉が帰ってくる一時間前に、沙耶はパソコンを閉じた。

コンセプト案の骨格は、ほぼできていた。完成ではないけれど、方向性は見えている。来週の前半には神崎に送れる。我ながら、悪くない仕上がりだと思った。

夕飯の準備を始めながら、沙耶の頭はまだ仕事のことを考えていた。あのキーワードの並びは正しいか。色のトーンはもう少し落ち着かせた方がいいか。フォントの選択肢をもう一度見直したい。

玉ねぎを切りながら、配色のことを考えていた。

鶏肉を焼きながら、キャッチコピーの候補を頭の中で転がしていた。

こういうの、好きだったんだ。

包丁を持つ手が、ふと止まった。

仕事が好きだということを、最近あまり思わないようにしていた気がする。好きだと思うと、達哉の「続かないでしょ」という言葉が必ずついてくるから。好きという感情に、あの言葉がセットになっていた。

でも今日一日、達哉の声は聞こえなかった。

夢中になっている間、あの声は来なかった。

六時過ぎ、達哉が帰ってきた。

「おかえり」

「ん」

靴を脱いで、ネクタイを緩めながら、達哉はリビングへ向かった。ソファに座って、スマートフォンを開く。いつも通りの帰宅だった。

「今日、何してた」

テレビをつけながら、達哉が言った。こちらを見ていない。

「仕事」

「どうせ大した仕事じゃないんでしょ」

沙耶はキッチンから返事をしなかった。

以前なら、ここで何か言っていた。「そんなことないよ」とか「ちゃんとした依頼なんだけど」とか。達哉の言葉を否定するのではなく、ただ、完全に肯定されるのが嫌で、少しだけ抵抗していた。でもそのたびに達哉は「じゃあ具体的にどんな仕事なの」と聞いてきて、話すと必ず「それって誰でもできるやつじゃないの」という方向に着地した。

だから今日は、何も言わなかった。

返事をしないことで、会話が終わった。達哉もそれ以上は聞いてこなかった。

これでいい。

沙耶は味噌汁をよそいながら、そう思った。

全部話す必要はない。守りたいものは、守っていい。

夕食中、達哉が言った。

「来週の日曜、親父たちのとこ行くから」

「……急だね」

「急じゃない。前から言ってた」

言っていない、と沙耶は思った。でも言わなかった。この手の話で「聞いていない」と言うと、必ず「お前が聞いてなかっただけ」という返しが来る。そしてそれがどこまでも続く。消耗するだけだ、ということを沙耶は学習していた。

「わかった。何時に出る?」

「十時。昼飯、向こうで食べるから」

「お義母さんに何か持っていく?」

「いらない」

それで会話は終わった。

沙耶は箸を動かしながら、来週の日曜のことを頭の隅に入れた。義実家。常夫さんと景子さん。あの家の空気。行くたびに、帰りの電車の中で少しだけ、自分が小さくなった気がする。

来週か。

でも今週の沙耶には、来週より先に、やることがある。

コンセプト案の仕上げ。神崎への送付。それだけを考えよう。

箸を置いて、沙耶は立ち上がった。

「ごちそうさま」と達哉が言った。

「はい」と沙耶は答えた。

皿を重ねながら、今日一日、画面に向かっていたときの感覚を、もう一度思い出した。時間が溶けていく感覚。言葉が形になっていく感覚。誰かのためではなく、自分の判断で手を動かしている感覚。

夢中になれるものが、ある。

それだけで、今夜は眠れる気がした。

夜、達哉が寝室に入ってから、沙耶はもう一度だけパソコンを開いた。

コンセプト案のファイル。今日作ったキーワードの並びを、もう一度眺めた。

悪くない。

むしろ──いいと思う。

自分の仕事を「いい」と思えることが、こんなに久しぶりだとは思わなかった。達哉の言葉がいつの間にか自分の中に入り込んで、自己評価の基準になっていた。「どうせ大した仕事じゃない」──その声が、沙耶自身の声になっていた。

でも今夜だけは、その声より先に、別の声が聞こえた。

これは、いい仕事だ。

沙耶はファイルを保存して、パソコンを閉じた。

部屋の電気を消して、ベッドに入る。

天井を見上げながら、沙耶は思った。

来週、神崎に送る。ちゃんと送る。

目を閉じると、今日一日の時間が、ゆっくりと沈んでいった。悪くない一日だった。久しぶりに、そう思える夜だった。

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